2011-10-15

『いま、世界を変えている日本人』 ベトナム 白井尋さん②

(フーンライ玄関前)


K「ベトナム家庭料理の美味しさを広めたいと思われた理由をもう少し詳しく
教えていただけますか?」

「やっぱり私自身がベトナムの素晴らしい文化を広めたかったんですね。
実はフーンライを始める一年前にテウテウというショップをオープンしたんですが、
そこでは敢えてベトナムの手刺繍の製品にこだわったんです。」

K「敢えて?」

「そう。単純にビジネスとして考えたら、手刺繍を扱うことは逆方向なんです。
単純に時間も手間もかかる。けれどお客さんはその手間の分を払おうとは
思わないですよね。」

K「そうですね。」

「だから商売だけ考えたら、機械刺繍の方がいいんです。
ほとんどのお客さんは機械刺繍と手刺繍違いがわかりませんからね。
ただやっぱり、両方を買って、手にとって何度も繰り返し使っていると、
違いが解ってくるんですよね。」

K「なるほど。」

「だから、やっぱり手刺繍というベトナムの素晴らしい技術があるので
それにこだわってやって行きたかったんですよ。」

K「なるほど。」

「『テウテウ』でベトナムの文化を紹介するハコは一つ出来た、
という感覚はあったんです。けど、その後もっと自分の好きな
ベトナムを紹介していきたいっていう欲が出てきたんです。
それに加えて、ブティックは女性向けだけど、レストランは万人向けに
伝えられるじゃないですか。そういう考えもあって、
レストランを始めることになったんです。」

K「ちなみに当時ベトナムの人々自身は
ベトナムの文化に誇りを持っている感じは無かったんですかね?」

「そうですね。けど、それはどこの国でも一緒じゃないでしょうか。
やっぱり自分の国のものよりは、自分達に無いものに憧れる。というのかな。」

K「なるほど。では、ベトナム人で
敢えてベトナム家庭料理レストランを開こうっていう人は
なかなかいなかったんですね。」

「だと思います。今でもあまり見ないですしね。
例えばワインにしても、うちはベトナムのダラット産ワインしか
置いていないんですよ。もちろんビジネスを考えたら
高級なフレンチワインを置いた方が利益もあがるし、絶対に良いわけです。
けど、「ベトナムを紹介する」というコンセプトを考えたら、
やっぱりフレンチワインを店には置けないんですよね。」

K「確かに。」

「それに自分で味わって「これはいける」と思えるベトナムワインが見つかったんです。
それを提供することが、お客さんにとっては新たな出逢いになるわけですよね。
『こういうワインがベトナムにもあるんだ!』ってね。」

K「そうして生まれる『お客さんとベトナム文化との出逢い』
その瞬間の感動を提供したいわけですね。」

「そうですね。」

K「しかし、そもそも、なんでベトナムなんですか?」

「何故、渡航先としてベトナムを選んだか?ですか。
先ほどもお話したとおり、小さいころから海外には興味があったんですよ。
なので、大学時代にバックパックを背負って世界のいろんな国を旅したんですよね。
その時の経験から自分は東南アジアと波長があったんですよね。
当時東南アジアは今よりも、フレッシュで、エネルギッシュであり
しっちゃかめっちゃかだったんですよね。そして、自分も若かった(笑)。」

K「なるほど。波長が合った。」

「なので異質であると同時に、同質な部分も感じられたんですよね。
だから面白いなと感じていました。」

K「なるほど。」

「中でもベトナムを選んだのは、偶然なんです。
まず海外に出ようと決めてから。では、どこに行くかを考え出した。
当時、日本の図書館で、いろいろリサーチして国を決めようとしたんです。
そのなかでビザや語学学校など様々な条件が整っていて、
かつ面白そうだなと感じたのがベトナムのサイゴンだったんです。」

K「最初ベトナム語でのコミュニケーションは苦労しませんでしたか?」

「もともと語学は好きだったんです。
だけど、それでも最初の二カ月ぐらいは壁にぶち当たりましたね。
発音が出来なかったんですよ。」

K「声調多いですもんね。(笑)」

「『このまま話せないんじゃないかな?』なんて考えたりしましたもんね。
なので、こちらで日本語を勉強しているベトナム人を捕まえて
曜日ごとに相手を変えてはベトナム語の勉強をさせてもらって、
夜は路上の売り子さんを相手にベトナム語を勉強して、
それを続けていく事で、なんとか話せるようになりましたね。」

C「では、ベトナムの食文化の豊かさなども
こちらに来てから気がついたんですね。」

「そうですね。」

K「当時、日本人って歓迎されてました?」

「やっぱり日本人は愛嬌あるから、好かれてましたね。」

K「孤児院との出逢いについて詳しく教えてください。」

「私がベトナムに来て四年ぐらいした頃に、とあるNGOが翻訳ボランティアの募集をしていたんです。
面白そうだなと思ったので、それに申し込んだんです。
そしたら、そのNGOに日本人スタッフが居て、
その方の紹介である孤児院に出逢ったんです。」

K「なるほど」

「その頃ベトナム生活も四、五年目に入り、
ベトナムの社会に対して客観的な考え方も持てるようになっていたんですね。
なので、もう少しベトナム社会に入って行きたいなって思ってたんですよ。」

K「ベトナム社会に関わっていきたいと思われたんですね。」

「自分の中にベトナムに対して『感謝』や『罪悪感』や『愛着』といった
いろんな感情が生まれて来てたんです。それを形にしたいなと思ったんですね。」

K「当初ベトナムに来るときには
『何年くらい居よう!』とか決めていたんですか?」

「まったく決めてませんでした。
私は、元々小さいころから夢を見る事をしなかったんです(笑)。
常に予感に生きていたというか、
『これは正しいんじゃないか』って自分が感じるものを大事にしてきたんです。」

K「面白いですね。」

「なので『2、3年はいるだろうな』っていう予感だけを持っていたのかな。
とにかく、『決める』のは自分のスタイルじゃなかった。」

K「結果として15年近くベトナムにいらっしゃるわけですが、
腰を据えると決めたのはいつですか?」

「大きなターニングポイントはなかったかもしれないですね。
自然とそうなっちゃった(笑)。つまりね、私にとっては
ベトナムに住んでいることがだんだん非日常から、日常になっていくんですよ。
わかりやすくいうと「ベトナムに来てもう一年か」という風に数えなくなるんです。」

K「なるほど、そういう意味で自然に現在に至っているんですね。
そして「よし!やるぞ」って決める瞬間も無かった。それって凄く面白いな~。
私の経験としては、日本の若者が非営利分野で起業するとなると周囲の人々から
『骨をうずめる覚悟があるのか?』ってな事を聞かれるケースが多いんですよ。
けど、考えてみると、それは本人が言いたいことじゃなくて、
実は周りが言ってほしいことなんですよね。」

「それに比べると、私はやっぱり小さいころから周りの意見に
流されたくなかったんですよね。(笑)」

K「そうなんですね(笑)」

「私自身が子どもの頃を振り返って良かったなと思うのは、
自分が小さいころから学校を信じて無かった事なんですよ。」

K「良い意味で疑問を持っていたんですね。」

「普通田舎の子ってね、従順だから、学校のこと信じちゃうんですよ。
学校が全てで、先生が全てなんです。だから校則や、教材などをはじめ
言われること全部に従うし、信じちゃうんですよ。」

K「そうですね。僕自身も実感しています。」

「そういう「当たり前」と言われることを簡単に信じちゃうんですよね。
私はそれが苦手でした。もちろん学級委員とか生徒会とかやってたんで、
決してひねくれものってわけでも無いんですけど、心の底で信じてはいなかった。
それが結果として良かったなと、いま思いますね。」

K「とても重要なお話ですね。」

「例えば当時、学ランの首周りの白いカラ―をつけるのがどうしても
嫌だったんですよ(笑)。それに「カラーをつけないと不良」っていう
周囲の考え方もわかんなかったし(笑)。」

K「面白いな~。おっしゃられる通り、
そういう『常識』とか『当たり前』とされていることを鵜呑みにしないで、
一度きちんと自分で考えて、それから判断するってとても大事な事ですよね。
日本では何かステレオタイプにはめるのが好きなんですよね。」

「そうだね。ただ、戦後そのおかげで成長してきたのも否定できないんだよね。」


K「確かにそうですね。話を戻しますが、
では孤児院の子ども達のための事業という一面は
強烈な原体験があってから始めた。という訳ではないんですね。」

「そうですね。」

K「ちなみに、ベトナムの孤児院は何歳まで受け入れているんですか?」

「基本的には16歳までです。
以前は16歳以上を受け入れる所もあったんですけど、
つぶれちゃったんですよ。子どもたちが暴動を起こしてね。
あまり知られていないけど、本当は孤児院の運営ってものすごく大変なんです。」

K「なるほど、でも子どもたちにとって一番重要なのは
その16歳から20歳くらいまでの数年間をきちんとフォローしてあげる事ですよね?」

「おっしゃる通りです。その時期にきちんと真っ当な道を見せてあげることが
重要なんです。その時期に出逢うもの次第で、良くも悪くもいくらでも変わりますよ。」

K「なるほど」

「例えば、孤児院に居るまでは良かったけど、
 そこを出た途端、悪い友達とつるむようになって
 売春に手を出して、病気をもらって死んじゃった子もいますからね。」

K「なるほど、そういった事を踏まえて伺いますが、
フーンライをはじめて既に10年経つわけですが、
これまで一番苦労されたことってなんですか?」

「これまでというか、常に苦労するのは、
やはりそういう環境で育った子たちが相手なので、
子どもたちが人との接し方とか愛情の示し方とかが苦手なんです。
なので結果として、すぐ仲間割れとかをしちゃうんですよ。
そこら辺の解決や防止、子どもたちの導き方っていうのは今でも頭が痛いですね。」

K「そういう、愛情不足だったり、親すら信頼できないといったバックグラウンド
を持つ子ども達との『信頼関係』ってどうやってつくるんですか?」

「そもそもベトナムでは『信頼関係』を築くこと自体すごく難しいんですよ。
それが出来る子はできるし、出来ない子はどれだけ時間をかけても出来ない。
例えば、昔はうちのスタッフ間でも平気で盗難とかありましたからね。」

K「スタッフの間で?」

「そう。同じ貧しい境遇の間柄でも盗るんですよね。
自分も最初はびっくりしましたよ。『同じスタッフのモノでも盗るんだ!?』ってね」

K「それは凄まじい状況ですね。」

K「一方でフーンライを運営していて嬉しいことって何ですか?」

「嬉しいことって、日々の事なんですよね。
例えば、子どもたちが英語が話せるようになるとか、
お客さんとコミュニケーション出来るようになるとか
そういう彼らの成長を感じられると嬉しいですよ。」

K「尋さん自身、経営者であるとともに教育者としての役割もおありになるんですね。」

「僕が言うのもなんですけど、そうですね(笑)。
あとは純粋にお客さんに料理とサービスを提供して、喜んで頂けることですよね。
気に入ってくれたお客さんが何度も足を運んで下さったりする。
そういうスタッフ全員で共有できる感動が、日々あるんです。
それも大きいですよね。」

K「なるほど、そういった両面の喜びが、ご自身のモチベーションになるんですね。」

「それとは別に以前、とても感動したことがあるんです。
ホーチミンにマジェスティックホテルという五つ星ホテルがあるんですが、
そこで私の結婚式を挙げることにしたんですね。なので、ある日下見を兼ねて
そのホテルのレストランに食事に行ったんです。
その時、そこで食べた料理がすごく美味しくて、夫婦で感動していたんですね。」
そうしたら、そのレストランのキッチンから、ふと以前フーンライに居た子が
出てきたんですよ。」

K「おぉ。」

「その子が『今日はもう上の人間が帰ったから、いまは俺が料理をつくってるんだ』
っていうんですよ。」

K「え、すごい!」

「彼がマジェスティックに入ったのは知っていたんですけど、まさかここまでの
料理を出しているとは思わなかったので『これ、お前が作ってんのか!?』
って言って驚いちゃった。」

K「それは嬉しいですね~!」
ちなみに、今まで何人くらいの子がフーンライを巣立ったんですか?

「50人くらいですね。
そのうち八割位が『この子なりに学んでくれたな』という気持ちで送り出せましたね。」

K「残りの二割は?」

「問題起こして辞めちゃったりですね。」

K「なるほど、卒業した子はみんなホーチミンで就職するんですか?」

「いや、ムイネーやダナンに行く子もいますよ。
来週もある子から相談を受けるんですけど、その子はホーチミンのニッコーホテルと
ダナンの五つ星ホテルとどちらも受かっていてね。どっち行くか迷っているから、
相談に乗るんですよ。」

K「凄いですね。ちなみにベトナムではホテルなどの採用は実力主義なんですか?」

「そうですね。特に外資はそうです。」

K「なら、学歴とかそういった変な縛りは少ないわけですね。」

「ただ、うちに来るような子どもたちにとって一つ問題なのは
IDカードが無いということなんです。日本でいえば、
本籍が無い子がいるんです。そういう子はどれだけ実力があっても、
高級ホテルへの就職が難しいんですよね。」

K「本籍が無い?そんなことがあるんですか?」

「そうなんです。そういう子どもたちは誰かの籍に入る事でしか
IDを取得できないんです。けれどそれはなかなか難しいんですね。」

K「日本人にはイメージ出来ない事ですね。」

③へ続く


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